恋した1993

    
    まだ陽も高い場所にあって、都会の中心から少し離れていると言っても、一応は繁華街であるそこの公衆電話にはやはり
    列が出来ていた。
    列の大半は、週に2度あるかないかの休日を楽しもうと街へ繰り出してきた中高生達だ。
    今から友達を遊びに誘うのか、それとも恋人に連絡を入れるのか、真相はどうかはわからないがその浮足立つ列の後ろに
    俺は部活帰りのジャージのまま並ぶ。
    上着を脱いでむき出しの腕が日光にジリジリと当たると、むわりと磯の匂いがした。
    
    肩にかけていたスポーツバックから、学校で配られているプリントを纏めているファイルを取り出す。
    確かにここに……と中身を覗けば、それはすぐに見つかった。
    それは二週間ほど前にあった生物の小テストのプリント。いつもなら返却されたプリントは家で纏めて保存しておくのだが、
    これだけは別の用途の為に常にこのファイルにいれていた。
    ペラリとそれを裏返すと、印刷されていないそこに少しだけ歪な表が手書きで書かれている。
    
    平仮名と数字を組み合わせたそれを書いたのは、自分ではない。
    誕生日プレゼントにとポケベルを買って貰ったはいいが使い方がさっぱりわからないと言った俺に、アイツが笑いながら何も
    見ずにスラスラと書き込んだものだ。
    けれど俺はきっとこれを覚えることはないだろう。言っておくが記憶力が悪いからではない。そう頻繁に使うようなことに
    なるとは思わないからだ。
    こういうものは使わなければ覚えないからな。
    
    表に書かれている数字の羅列に目を走らせる。さて、言葉を送るにはどういった数字を使えばいいのだろうか。
    暫くその表をじっと眺めたが、一向にわからない。
    俺は小さくため息を吐いた。わかるわけがない。まだどんな言葉を送ればいいのかもわからないというのに。
    
    (別に今でなくとも……いや、いっそ明日でも……)
    
    明日になってもまだ思いつかなければ明後日がある、それが駄目でもまた……そしていずれ。いずれ?
    いずれ―――全て終わるのだ。この時間も。自分と彼女の関係も。
    それは決して遠くない未来にやってくる。今のままなら、ほぼ確実なものとして。
    
    心の中で声がする。
    
    『お前はそれを、嫌だと思ったのだろう?』
    
    (……あぁ、思ったのだよ)
    
    ―――カラリ。
    
    前に並んでいた女子が電話ボックスから出てくる。
    なんとなく軽い会釈を交し合い、俺はその子と入れ替わりに電話ボックスへと入った。
    受話器を取り、財布からテレホンカードを出しながら、尚考える。
    何を言おう。どう伝えよう。どんな言葉を送れば届くだろう。
    そう考えて、ふとアイツへの言葉をこんな風にじっくりと考えたのは初めてだと気が付いた。
    アイツとの会話は、字面通りキャッチボールだ。投げて、取って、投げる。その最初の一投が俺からだろうとアイツから
    だろうと、それはいつだって自然と足元に転がってきた。
    
    今俺の足元に転がっているボールはなんだろうか。
    そしてそのボールを投げたとして、この電波を伝って自分にどう返ってくるのだろう。
    
    「……こういうのは俺の性に合わないのだよ」
    
    俺は生物のプリントの裏に書かれた表を確認しながら、一つ一つゆっくりとボタンを押した。
    
    
    
    
    『85 93 52 44 04 03 01 33 93』
    
    
    
    
    声が、聞きたいと思った。
    
    
    
    
    
    ******
    
    
    
    
    
    (やはりこうなるのか……)
    
    俺はさっきまで厳しい練習にヒィヒィ言っていた連中が、元気に海へ飛び込んでいくのを眺めながら呆れたため息を
    吐いた。
    隣に立っていた栗色の髪をした男がそんな俺のため息に気づき、コテンと首を傾げる。
    
    「どうしたの緑間?ため息なんて吐いちゃって」
    「……先ほどまで死にかけていたのはどこのどいつらだったかと思ってな」
    
    毎年秀徳バスケ部恒例となっている夏の合宿は、やはり強豪校だけあって厳しいものだ。
    期間は三日間。決して長くはない日数だが、その分内容も詰め込まれていて正直3年目と言えど俺自身慣れたとは言い
    難いものがあった。
    勿論ついていけないなどという様は1年の当初から晒したことはないが。
    
    だがやはり1年の大半はここで泣きを見ることになる。ある意味この合宿がこの部内最大の"振るい落とし"の期間で
    あると言えよう。
    ここでついてこれない奴は去年も一昨年も、そのほとんどが辞めていった。今年も……この分じゃ残った奴らを数えた方が
    早いかもな。
    そんな練習の後でさえ、ああやって騒ぎ喚く上級生をまるで化け物を見るような目で見つめながら日陰で休んでいる1年を
    見ながら、まぁそんな目になってしまうのも無理はないか、と思った。
    いや、少し訂正する。化け物というよりも。
    
    「ただのバカだ」
    
    ああ、あれは誰がどう見てもただのバカなのだよ。
    
    「アハハ、元気があっていいと思うけど……」
    「無理しなくていい。口元が引きつっているのだよ」
    
    普段ニコニコと優しげな顔つきの男だが、その分愛想笑いは得意じゃないようだ。
    しかしそれも仕方ない。あれを見てると誰だって普通呆れる。
    
    「全く……子供かアイツらは」
    
    "あれ"、"アイツら"。
    それを分かりやすく説明するとするならば、―――海に入って遊んでいるのかと思いきやいきなり本気の喧嘩をし出した
    馬鹿二人、だ。
    
    さっきからぎゃいのぎゃいのと叫び声が聞こえてきて煩いことこの上ない。俺はお前らの声帯がどうなっているのが常々疑問
    なのだよ。さっきの午前練もかなり声出しをしていたはずだろう。馬鹿じゃないのか。あぁ、馬鹿なのか。
    騒ぎの中心の馬鹿二人と、それを面白おかしく囃し立てる周りに俺がイライラとしていると、不意に隣に立っていた男が
    「あぁそうか」と呟いた。
    なんだと顔を向けると、全く仕方ないなぁというように笑われる。
    その原因がわからず思わず顔を顰めると、その男はグッと背伸びをして俺の頭を数度ポンポンと叩いた。
    
    「あれでしょ?去年一昨年と服着たまま海に引きずり込まれたから今年はちゃんと海パン持ってきたのに、アイツらが全く
    ちょっかいかけてこないから拗ねちゃってるんでしょ?」
    「な……っ!?」
    
    男の発言に俺は思わずそいつの頭を叩いた。
    
    「イテッ!」
    「だ、誰が拗ねているというのだよ!!そんなことあるわけがないだろ!!」
    「えー、でもそういう風に見えるよ?」
    「そんなこと!!断じて!!ないのだよ!!」
    
    何を言うのかと思えば、見当違いも甚だしいことこの上なさすぎるわ!!もういっそ名誉棄損で訴えてやろうか!!
    確かに今までの2年間何人かの馬鹿に「水着を持ってきてないから入れない」と言っているのに無理やり引きずり込まれた
    ので今年は流石に学習して一応水着を履いてはいるが、断じて混ざりたいとかそういう気持ちは一切ない。これっぽっちもない。
    全く勘弁してくれ……アイツらと一緒に仲良く海水浴など、虫唾が走るのだよ。いや、アイツらも仲良さげにしているわけ
    ではないがな。現に喧嘩しているわけだから。
    
    だがともかく俺はアイツらに混ざる気も、混ぜてほしいとも思っていない。ここは間違って貰っては困るのだよ。
    俺がそういうと、男は「なら……」と少し考えて―――次に、「あぁじゃあこれだ」と笑った。
    
    「中々高尾ちゃんが出てこないのが気になってるんでしょ?」
    「……ハ?」
    
    何故今ここでその名前が出てくるのか全く意味がわからず、俺は思わず素で惚けた声を出してしまった。
    俺のその様を見てか、「あれ?これも違う?」と男が首を傾げる。
    ……いや、首を傾げたいのは俺の方なんだが。どうしてそこで突然高尾の名前が出てくるのだよ。意味がわからん。
    
    「えー、だって今まで女子と日程被ることってなかったじゃん」
    「あぁ……まぁそうだが……?」
    
    それは確かにそうだ。いつも男子と女子は日程を少しずらして合宿を行うのが常である。理由は、『どちらか一方だけでも
    大人数なのに両方一度など部屋が取れないから』だそうだが。
    後、誰が言っていたかは忘れたが『前に男子が女子の部屋に行ってちょっとごにょごにょしちゃったせいだ』という話も
    あったか。実際本当にそんなことがあったのかはわからない。それが事実であれどうであれ俺には関係のないことなのだよ。
    まぁつまりは、男子と女子の合宿の日程が合ったのは随分久しぶりのことらしい、という話だ。
    
    「秀徳ってプールの授業も男女別々だしさ、『個人的に一緒に遊びに~』とかじゃないと、女子の水着なんて見る機会ない
     わけじゃない?」
    
    男の話を聞いて、なるほど、と合点がいった。
    何の合点がいったかと言うと、今日の午前練が始まる前に妙に男子連中が浮足立っていたことだ。
    どちらかというと厳格な方のうちの部長もその空気に乗せられてかどことなくそわそわしていたから、何故だろうとは思って
    いたのだが。
    因みにその部長は午前練が終わった後ぶっ倒れかけた同じスタメンの奴の世話をしに昼飯時は席を外し、今は海の中でその世話
    してやっていた相手と元気に喧嘩をしている。なんというか……心底の馬鹿だなアイツらは……。
    
    さっきからその二人にばかり目をやりがちだったが、いや騒がしいから目に入ってくるだけで別にまた倒れたりしないかなんて
    心配などしていたわけではないのだよ。
    兎に角、ちょっと視界を広げて見れば、女子がいるからか確かに周りの連中のはしゃぎ方がいつもとどこか違うように見えた。
    
    なんというか……わかりやすく、浮かれている。
    
    「……鼻の下が伸びすぎなのだよ」
    「そう言ってやるなよ。普通はそうなるもんだって。緑間がそういうことに鈍感すぎるだけ!」
    
    いつまでもそうだといい加減高尾ちゃんに愛想つかされるよ!と男が言う。
    いやだから、さっきから何故高尾が引き合いに出されているのだよ。訳がわからん。
    
    高尾というのは、女子バスケの副部長をしている奴で、俺と同学年同クラスの女だ。
    何の因果か生徒数がそこそこ多いはずのこの学校では珍しい、三年間同じクラスという快挙を成し遂げた。何の自慢にもならん
    快挙だな。
    そして、男子と女子で分かれているものの同じ"バスケ"という繋がりもあるせいで、まぁまぁ俺の中ではよく一緒に行動している
    方だ。
    
    前に一度他のメンバーに同じように言った時、「"よく"!?あれだけひっついてて"よく"で済ませるの!?朝一緒に登校して学校
    では中休み昼休みべったりで部活終わった後は一緒に自主練で残ってその後一緒に帰ってるその状況を"まぁよく一緒にいる方か"で
    片付けるつもり!?バカじゃないの!?え、バカじゃないの!?」と声を揃えて叫ばれたが、拳で黙らせた。大体俺がアイツと一緒
    にいるというより、何か知らんがアイツが構ってくるだけだ。アイツが他に用事がある時はそちらに行っているし、何も皆が思う
    ほどいつもいつも一緒にいるわけではないのだよ。
    
    「足りないのか……あれだけ一緒にいてもまだ足りないのか……っ」
    「ん?何がだ」
    「あ、いやなんでもない。うん、まぁ高尾ちゃん絡みで何か悩みが出来たらなんでも僕に相談してね!絶対だよ!」
    「?あ、あぁ……?」
    
    グイッと身を乗り出して必死にそう言い募る男に、俺は若干引きながら取りあえず頷いておいた。
    どこか決意を込めたように握りこぶしを作り、一人で何やら意味深げに頷いた男の考えていることなどさっぱりわからないまま、
    その男に向かって掛けられた後輩の声、「マネージャー!部長と先輩が鼻血出してぶっ倒れましたー!」という言葉にそいつは
    慌ててそちらに駆けて行った。あぁ―――言っていなかったがアイツは男子バスケ部に在籍しているが、選手ではない。
    いや、最初は選手として入っていたが、色々あって今はマネージャーとして主に喧嘩しては怪我を作る部長と体力馬鹿二人の手当てを
    している。
    自業自得なのだから放っとけばいいのにと思うのだが、それが出来ない、呆れるほどに優しい男だ。
    
    
    
    ……だが、あの馬鹿達がいたから、今自分はこんな風にこのバスケ部という中にいれるのだろうなと思う。
    
    正直俺が入部した時にいたあの先輩達が卒業してしまってから、俺は今まで自分が犯してきた"間違い"をむざむざと感じさせられる
    ことになった。
    遅すぎやしないかと、あの時は流石に自分で自分に呆れたのだよ。手放したくないものだったなんて、とっくの昔からそうであった
    というのに。
    
    もう無理かも知れないと思っていた俺を繋いでくれたのが、あの馬鹿達だった。
    あの馬鹿達は、本当にどうしようもない馬鹿で。そしてその馬鹿故に、俺を繋ぎ止めた。
    
    そして、その橋渡しをしたのが―――高尾だ。
    
    「―――なんだか今日は、嫌に感傷的な気分になるな」
    
    これが最後の合宿だから、だろうか。
    海の中で騒いでいた二人の姿はもういない。きっとマネージャーに連れられて今頃部屋で休んでいるのだろう。
    最終的にぶっ倒れるまではしゃぎ続けたあいつ等も、こんな気持ちがどこかにあったのかも知れない。
    
    (でもあの二人は、何も考えてないという線の方が強いか)
    
    馬鹿だからな。
    
    「あ、真ちゃん!」
    
    ふとどこか慌てたような声が聞こえて、俺はその声の方に顔を向けた。
    勿論見るまでもなく誰かはわかっている。俺のことをこんな呼び方をするのは一人しかいない。
    
    「高尾?」
    
    旅館から出てすぐに俺に気付いたのだろう。こちらへと駆け寄って来る高尾に、何をそんなに慌てているのかと思う。
    もしかして倒れたあの二人に何かあったのだろうかと良からぬ想像が頭を過ったが、近くまできた高尾は何故か俺の頭にタオルを
    被せると「こんなとこで何してんの!!」とどこか怒ったように言った。
    
    「ただ立っていただけなのだよ。それよりこのタオルは何の……」
    「この炎天下の中でぼぅっと突っ立ってるとかありえないでしょ!日射病になりたいの!?」
    
    ただでさえスタメンの馬鹿二人が担ぎ込まれてたのに!と言いながら高尾に手を引かれる。
    確かに部内の三年三人が日射病、しかも全員スタメンとなれば後輩に向ける顔がないが……。
    言われてみれば確かに体が熱かった。もしかしたら結構な時間陽に当たっていたのかも知れない。
    そう思えば途端にこの暑さが不快になってきた。ダラダラと首筋を伝う汗を、高尾に被せられたタオルで拭う。
    
    途中の自販機で飲み物を買い、俺は手を引かれたまま高尾がつい今し方出てきたばかりだろう旅館へと入った。
    冷房の涼しい風に、思わず小さく息を吐く。
    
    「ほら、これ飲んで、出来たら首もそれで冷やしときなよ。あんなとこでぼーっとしてるんだもん、マジびびったー……」
    
    別にぼーっとしていた覚えはないと返せば、じゃあ何をしていたんだと聞かれて言葉に詰まる。
    マネージャーと話はしていた。だがそれは数分の微かな時間であり、その前までどれだけあそこにいたのか、その後はどれほど
    その場にいたのか、はっきりと覚えていないことに気付いたのだ。
    自分でもその理由がわからなくて、少し眉を顰める。するとそれを見た高尾が少し心配気な顔で「しんどい?一回部屋戻って
    横になった方がいいよ」とまた俺の手を引こうとした。
    さも当たり前に俺の世話を焼こうとする高尾の手をこちらも当たり前のように取りかけて、ふとそう言えばこの3年間いつも
    こうやって手を引かれていたなと思った。
    
    今まで考えたこともなかったことだ。それほど高尾はすんなりと俺の隣に立ち、極自然にこの手を取っていた。そして俺も、
    それを嫌だと思ったことはなかった。
    どうしてだろうかと、今更ながらに思う。
    
    「真ちゃん?」
    
    気付けば俺の手は、伸ばされた高尾の手を避けるように動いていた。
    きょとんとこちらを見上げてくる高尾の目に、訳の分からない焦りだけがつのる。
    何か言わなくてはと口を開くが、今しがたドリンクで潤したにも関わらず尚渇きを訴える舌のせいで上手く言葉が紡げない。
    
    「……一人で、いける。少し休めば平気だ」
    
    俺の平常とは違う様子が気にかかるのか「でも……」と眉を潜める高尾に、何か上手い言い訳はないかと必死で考える。
    
    「大丈夫だ。それにお前、これから海に行く所だったのだろう?」
    
    そうだ。高尾はつい先ほど旅館から出てきた所で、きっとその面倒見の良さ故に引き受けた仕事を今しがた終わらせたばかり
    だったのだろう。
    後は私がやるから皆遊んでおいでよ、といつものように笑う高尾を思い浮かべるのは簡単だった。
    それらを終わらせやっと他の奴らと合流し遊べるようになったというのに、その時間を自分に取らせるのは幾ら空気が読めないと
    言われる俺であっても流石に申し訳なさが先立つというものだ。
    
    「そんなの気にしなくても」
    「こんな風に遊べるのも今年で最後なのだよ。皆もお前が来るのを楽しみにしている。俺はいいから、あいつらの所に行ってやれ」
    
    普段の俺なら滅多に言わないだろう殊勝な言葉に、高尾は驚いたように少し吊り上がった目を大きく開いた。
    何となく気恥ずかしくなってさっさと部屋へ行こうと高尾の隣をすり抜けるように歩を進めようとした時、高尾が小さく声を上げて
    俺の腕を掴んだ。
    
    「で、でもさ……っ!」
    
    何か言い募ろうとしたのだろう。けれどその先の言葉が浮かんでこないようで、しきりに「えっと、その」を繰り返している。
    余程心配をかけてしまったのだろうか。そんなに俺は具合が悪く見えるのかと思いながら、とりあえず高尾を向こうへやる為には
    一先ず安心させてやらねばと考える。
    
    「部屋にはマネージャーもいる。歩けないほどの具合の悪さじゃない。大丈夫だ」
    
    兎に角部屋に一人で行けることと、行った先にきちんとした処置をしてくれる人がいることを説明して、これで納得してくれる
    だろうかと顔を覗き込むがまだ高尾の顔は晴れないようだ。
    まだ一押し足らないかと更に考えて、高尾のポニーテールに結った頭をポンポンと叩いた。
    
    「少し体を冷やせば収まる。そうしたら、すぐに戻るのだよ」
    
    暗にその程度のものだと言えば、高尾は漸く不承不承という表情ながらも小さく頷いた。
    
    「わかった。でも、無理はしないでね」
    
    ちゃんと水分取って、先に部屋で寝てる奴らのからかいに乗らずに大人しく横になっていること、と俺に言いつけて、それでも
    まだ晴れたとは言い難い表情で高尾はくるりと踵を返した。
    
    「じゃあ先行ってるからね!」
    
    パタパタと外へ駆けていく高尾の背中を見送って、俺は小さくはぁと息を吐いた。
    なんだか酷く自分が情けなく感じる。自分よりも一回り以上小さな手にあんなに強く引かれていたことに、つい今しがた気付いた
    のだ。そら情けなくもなる。
    次々と零れそうになるため息を飲み込む為に、俺は手に持っていたドリンクの残りを一気に飲み干した。
    
    
    
    
    部屋の扉を開けると、畳の上に転がされた男が二人だらしなく口を開けて寝こけていた。
    首と脇、そして内ももに保冷剤を当てられ休んでいるうちにすっかりお昼寝状態になってしまったらしい。
    嫌でも目に入るその可愛くもない大の男のお昼寝タイムを思わず半目で睨んでいると、俺の来訪に気付いたマネージャーが驚いた
    様子もなく「いらっしゃい」と部屋の中へと招いた。
    
    「もうそろそろ来ると思った。高尾ちゃんは?」
    
    にこりと邪気なく笑って、さも当たり前にそう俺に問うてくる男に、俺はどういうことだと首を傾げる。
    
    「え、だって俺と入れ替わりに高尾ちゃんが用事済ませて下に降りていったからさ。きっと今頃炎天下の中無意味にぼけっと立ち
    続ける緑頭を見つけて叱り飛ばしてるかなぁって。その後部屋で休むって話になるだろうから、そろそろ高尾ちゃんがお前を連れて
    くるかなって思ってたんだけど」
    
    お前一人で来るとは意外だったよ、とほにゃりと笑う優男に思わずひくりと頬が引きつる。
    常々思っていたが今はっきりと理解した。こいつの腹の中はきっと墨のように真っ黒なのだよ……。
    
    どこからどこまで、というか一体何を計算してなのかはわからないが、どうやらこの男は俺の状態異常に気が付きながらもそれを
    放置していたらしいということはわかった。
    自分の不注意によるものだとは承知しているが、それを意図的に見過ごされていたと知れば流石に腹が立つ。
    
    「何故言わなかった……」
    「僕より高尾ちゃんに処置して貰う方がいいかと思って」
    
    なんだその理屈はと眉間に皺を寄せるも、さっさと横になれと言わんばかりに畳を叩く男に従いその場に身を横たえる。
    立っているのが辛かったのは確かだったので、寝転んだ途端体の力が抜けていく感覚に思わず小さく息を吐いた。
    額に冷えピタを貼られ、首と脇に保冷剤という隣の男たちとほとんど同じ格好にされた後、「まぁお前は20分もゆっくりしてれば
    治るよ」とマネージャーがうちわを片手に微笑んだ。
    
    男がゆっくりと仰ぐうちわの風に、自然と瞼が落ちる。
    エアコンが入れられていないこの部屋に入った時は少し暑いかと感じたが、うちわと窓から入ってくる風、そして脈を冷やす氷の
    お陰で存外心地よかった。
    開けられた窓から外の喧騒が微かに風に乗って運ばれてくる。
    無意識にその中から一つの声を拾い上げようとしている自分に気付き、それが何故なのかわからず小さく顔を顰めた。
    
    「緑間、どうかした?気持ち悪い?」
    
    そんな俺の表情の変化に気付いたのか、マネージャーが静かに声をかけてくる。
    気持ち悪い、か。確かにそうかも知れない。
    あぁ、と男に肯定を示すと、そいつは暫く黙った後何が可笑しかったのかクスリと一つ笑った後「大丈夫だよ」と呟いた。
    
    「何がだ」
    「お前は難しく考えすぎだよ緑間。あんな暑い中で、訳も分からないことをグルグル考えてれば、そりゃ気持ち悪くもなるさ」
    「別に俺は何も考えてなど」
    「そうだね。例えば、普段見ないものを見てみれば、案外簡単に答えは出るかも知れないよ」
    
    きっかけなんて些細なことさ、と続ける男に人の話を聞けと怒鳴りたくなった。
    何も考えていないと言っているのに、こちらの話など聞く耳持たぬというように勝手に話を進めるこの男は俺の何を知っている
    というのか。
    
    そもそもお前が言うきっかけというのも、一体全体何のきっかけなのかさえ俺には見当がついていないというのに。
    自分の勝手な考えを人のものにするなと言いたいが、何よりも否定したかったのは「簡単に答えは出る」という部分。
    簡単なことなどではない。この気持ち悪さはとてもぐちゃぐちゃしていて、こんがらがって、きっと全て解くには途方もない
    時間のかかるものなのだ。
    それをそんな簡単になどと、安易な励ましのような軽い言葉で済ませようとするなと無償に腹が立った。
    
    「お前に何がわかる」
    
    ごちゃごちゃした気持ちの中一言だけそう言えば、「不貞腐れるんじゃないよ」とうちわでパシパシと頭を叩かれた。
    言い返そうにも自分の耳にも不貞腐れた声にしか聞こえなかったので、俺はもう男を無視して目を閉じた。
    
    
    
    
    
    ******
    
    
    
    
    
    友達の体がすっぽりと収まった大きな浮き輪の縁に腕と顎を乗せながら、ちらりと目が行くのは先ほど真ちゃんが向かった
    部屋の窓で。
    今はもう見えなくなったがつい今しがた、その窓からひょこりと顔を覗かせた男バスのマネージャーが笑いながらこちらに
    ひらひらとうちわを振って見せたので、きっと真ちゃんは無事部屋へ着いたのだろう。
    拒まれた手を思い出して、やっと訪れた楽しいひと時の中だというのに俺はついつい重いため息を零しそうになってしまうの
    だった。
    
    『こんな風に遊べるのも今年で最後なのだよ』
    
    ―――いやいや、だからこそ一緒に居たいんだよ真ちゃん。
    
    分かってくれないかなぁ、と思う。
    分かってくれないだろうなぁ、と思う。
    分かってくれなくてもいいから傍にいさせて欲しいと、そう思う。
    
    あんな風に伸ばした手を拒まれたのは初めてだった。
    なんだかんだと真ちゃんの周りをうろちょろし始めてからこっち、口で邪魔だと言われることは多々あれど、触れることを
    厭われることは一度もなかった。
    手を引けば意外にも素直についてきてくれたし、反対に引いてくれることだってあった。
    女として見られていないというのは重々にわかっていたが、仲間として、他人よりも近しい位置を認めてくれていると、そう
    思ってたんだけど。
    
    (何かしたかなぁ……)
    
    浮き輪から離れて、一人プカァと海に浮かびながら心地よい波間に揺蕩っていても、心は晴れそうにない。
    真ちゃんはきっとよかれと思って自分をこちらへよこしたのだとわかっていても、そこに真ちゃんがいないと何の意味も
    ないのだよー、と言いたくなる。
    
    少し様子を見に行くぐらいいいかなぁと思って、平泳ぎで岸へと向かった。
    こんな状態で海にプカプカしていても面白くもなんともない。
    足がつくところまで来ると、手で水をかきながら歩いて砂浜へと上がる。
    
    一先ず体拭かなきゃと道路から砂浜に降りる為の階段に置いてある自分のタオルを取りに行こうとしてそちらへ目を向けると、
    旅館からこっちに歩いてくる何人かの姿が見えた。
    やたらでかいその姿に、俺は思わず「真ちゃん!」と名前を呼びながら駆け出していた。
    
    
    
    
    
    ******
    
    
    
    
    
    そろそろいいかと体を起こして、ほぼ同時に昼寝から起き上がった馬鹿二人とマネージャーと共に砂浜に向かえば、大きな声で
    人の名前を呼びながらこちらに駆けてくる人影が目に入った。
    それに文句を言おうと開きかけた口は、しかし言葉が発せられずただぽけっとだらしなく開いた状態のまま放置される。
    砂浜へと続く階段を降り切った俺の傍まで来た高尾は、濡れた前髪を耳にかけながら心配そうな顔で「大丈夫?」と俺の顔を
    覗き込んできた。
    
    (―――この女は誰なのだよ)
    
    ……いやいや高尾だろう。どこからどう見ても高尾だろう。寧ろ高尾以外の誰であるというのだ。この顔は高尾でしかない。
    何年傍で見てきていると思う、俺が高尾の顔を間違うはずがないだろう何を言っているいや俺が何を言っている。
    軽い混乱の中「あぁ」といつも通りの言葉を発せられたのは奇跡だと思った。よくやったのだよ俺の反射神経!今ほど自分の
    反射神経の良さに感謝したことがあろうか。
    
    「本当?でもあんま無理はしない方がいいよな。俺もうひと泳ぎしたし日陰でゆっくりしようぜ」
    「あぁ」
    「あ、ちょっとタオルだけ取りに行ってくるな。すぐ戻る!」
    「あぁ」
    
    馬鹿みたいにそれだけを繰り返す俺だったが、高尾は特に違和感を感じたような素振りも見せず、こちらに駆けてきた時と
    同じようにしてタオルを取りにいった。
    それをなんとなしにぼぅっと目で追っていると、ふいに背中を結構な力でバシンと叩かれハッとして振り返る。
    しまったと思うが時すでに遅し。あっという間にニヤニヤと締まりのない顔で笑う部長と、口に手を当て肩を震わせて笑う
    馬鹿に両脇を挟まれた。
    
    「何呆けた面してんだ緑間?あ?」
    「今お前、高尾に見惚れてたろ?ドキッとしちゃったんだろ?」
    
    ニヤニヤと笑う馬鹿二人に代わる代わる小突かれ、俺は性質の悪い酔っ払いに絡まれた気分に陥った。
    もしかしたら酔っ払いの方が言ってることが支離滅裂な分だけまだマシかも知れない。
    
    
    
    ―――呆けていた。
    
    ―――見惚れていた。
    
    
    俺が二人をいつもの如く無理やり引きはがして怒鳴りつけないのは、ひとえに否定の言葉が喉につっかえて出てこないからだ。
    呆けていた。そうだ。ただ傍に駆けてきたあいつの言葉に、馬鹿の一つ覚えのような頷きしか返せなかった。
    見惚れていた。そう、なのかも知れない。
    目が離せなかった。高尾だと理解していても、高尾だと思えなくて。でもこれは確かに高尾なのだと納得できた。
    
    
    細い首、浮き出た鎖骨、膨らんだ胸の谷間、くびれた腰、スラリと伸びる足。それらを伝っていく水滴。
    見せつけられた気がした。
    
    
    
    
    高尾は―――こんなにも、女なのだと。
    
    
    
    
    
    
    見る見るうちに自分の顔に熱が上がっているのがわかる。
    隣の馬鹿二人がそのことに益々腹を抱えしまいにはげほげほと嘔吐く様を見下ろしながら、それでも俺はパクパクと口を動かす
    ことしか出来なかった。
    
    「ほら、だから言ったろ?」
    
    ―――きっかけなんて些細なことさ、って。
    
    気付いたのなら人事を尽くしなよ、と激励というには余りにもぞんざいな言葉をいつもより少し深めた笑みと共にこちらへ
    寄越したマネージャーは、未だに笑い続けている馬鹿二人を引っ張って「じゃあ後はごゆっくり」とその場から去って行った。
    ゆっくりってなんだ、どうしろというのだよと声にならない声でその後ろ姿に叫ぶが、馬鹿達のニヤつく顔がこちらを振り返る
    ばかりで欲しい答えは返ってこない。
    いきなり気付かされた事実を抱えてただあたふたとしか出来ない自分が、滑稽で仕方なかった。
    
    (人事を尽くせ……なんて)
    
    簡単に言ってくれるもんだ、と奥歯を噛みしめた。
    どうしろというのだ、今更。最後の夏はもう既に始まり、残された時間は刻一刻と終わりの時に向かって進んでいるのに。
    
    本当に、今更だ。
    
    
    
    
    ―――夏のお前に、ずっと恋してたなんて。
        

当サイトは以下の条件で動作確認を行っております。

windows8/enternet explorer11/firefox 26.0/解像度1366×768

推奨環境:enternet explorer8以上、解像度980以上

All rights reserved ポウ.