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電車と路面バスを乗り継ぎ、中野に出たのはもう陽も傾いた頃だった。
高尾は大きめの洋風鞄を背負いなおすと、感慨深げに駅からの風景を眺めた。
今日からここに住むのだ。
自分の生まれ育った故郷(くに)とは当たり前だが装いが全く違う。
不思議な街だと高尾は思った。
駅を出て、さてどうするかと思案する。
少ししたのち、高尾は自分の寝床となる家がある方向とは別の方へと歩き出した。
この度高尾がこうして中野まで出てきたのは、この街にある大学に通う為である。
頭の出来はそこそこといったところではあるが、出てくるに当たって一家総出で大変な見送りを受けた。
これは下手に帰れぬなと内心苦くも思ったが、まぁ簡単に帰るつもりもない。別段支障はないはずだと思う。
そして今朝方家を立つ際に、中野には真太郎さんがあるはずだから、ついでに挨拶がてら持っていきなさいと
母から紙袋を持たされていた。
真太郎さんというのは緑間という家の一人息子だ。
緑間家と高尾家は奥方同士が昔馴染みで、長男同士である自分と真太郎も幼い時分より良く顔を合わせていた。
偶然なことに年も同じくしていた為、初等教育も全て同じ教室で受けていたのである。
ブラブラと紙袋を所在なさげに揺らしながら、奴と最後にあったのはもう5年以上は前になるなと思った。
まだ成人も迎えておらぬような今の自分達にとっての5年は、驚くほどに長い。
しかも初等教育が終わり次第すぐにこちらへ出てきたというのだから、あちらさんも俄然都会の若者という色は
濃いものになっているはずだ。
それでも毎年必ず届く新年の便りを見ている分には、余り変わりもなさそうだとも思えるのだった。
「元気かなぁ」
ポツリと呟きが漏れる。
強く思い出されるのは珍しい緑の髪と同じ色をした瞳。それから、形の整った薄い唇。
今はどうなっているだろうか。
逸る気持ちを抱え、けれど決して軽くはない足取りを持って高尾は道を進んだ。
貰った地図をくるくるとひっくり回しながら、なんとか真太郎の住む下宿先へとたどり着いた時には、
陽はほとんど沈んでしまっていた。
学生用のアパートメントであるその建物はどの部屋も人が入っているようだった。
一階の一番奥の角部屋まで行くと、少しの躊躇いののち呼び鈴を鳴らす。
するとブーッ!と存外大きな音が響いて高尾は少し驚いてしまった。
少し待つと中で物音がし、ガチャリと扉が開かれる。
「はい」
耳に心地好く響く音に、懐かしいと感じた。
久しぶりと口を開こうとし、だが奴の姿を目に入れた途端そんな考えはすっとんでしまった。
でかい。扉を開けた真太郎と思わしき人物は、凄まじくでかかった。
自分もよくお前さんは本当に背が高くいらっしゃるねぇと言われるし、実際ここ最近は人を見上げることなどとんとなくなっていた。
だが目の前に現れた男は、そんな自分より少なくとも5寸は高い。
扉も男には窮屈なのか、まるで暖簾を潜るかのように背中は丸められていた。
「もしかして…高尾か?」
声をかけられて、高尾は漸くハッとした。
最初に電報も打たずに唐突に来てしまったことを詫びると、真太郎は構わないと言ってくれた。
今年の新年の便りに春先からそちらで下宿することになった旨は伝えていたものの、挨拶に邪魔することは
何も伝えていなかったのである。
それは、高尾がここに赴くつもりがなかったからなのであるが。
「これ、母さんからの手土産。多分食べ物だと思うけど」
「すまないな。ありがとう」
まぁ上がりなさいと勧められ、では失礼しますと部屋に上がった。
畳六畳ほどの簡素な部屋は、それでも学生にしては立派なものだと思った。
文机が一つと座椅子。壁に添えられている本棚には、難しい本がびっしりと綺麗に並べられていた。
「はぁー、なんもないねー」
「勉強が出来て、夜寝られれば問題ないのだよ」
「まぁ真ちゃんらしいけどさ」
男の返しが想像通り過ぎて高尾は笑ってしまった。
背は思わず心配になるくらいに高くなり、顔立ちは記憶にあった幼さを微塵も残してはいないのに。
だがその物言いと真っ直ぐな姿勢、こちらを見る眼差しはあの頃となんら変わりはなかった。
茶を淹れてくると男が言うので別に構わなくていいと断ったのだが、何故かうるさいと言われてしまった。
こういう真太郎には逆らっても無駄なので、大人しく広げられたちゃぶ台の前で正座をして待つことにする。
暫くして湯気の立った湯飲みを二つ持って戻ってきた真太郎に、こいつはもう一人でも茶を淹れられるようになったのだなと
感心した。
そんなことで感心出来てしまうぐらいに、昔の真太郎は驚くほど手先が不器用だったのだ。
折角だしと高尾が持たされた菓子を広げいざ向かい合って話し出すと、時間が経つのも忘れ盛り上がった。
「そんでさ、そいつが言うわけ!じゃあそれが本当かどうか試してみようって」
「ほう」
「でもんなことしてそれがもし当たってたら、その子死んじゃうじゃん?それは駄目だからって話になってな」
「それで?」
もっぱら喋るのは高尾。真太郎はほとんどが相槌を打つぐらいのものだった。
それでも打たれたからには勿論響くと言わんばかりに高尾の喋りも止まらない。
実際にした自分の体験談から最近読んだ本の批評など、口から転がり出る言葉は後を断たなかった。
そうこうしているうちに茶も飲み干し、菓子もなくなってしまって、高尾はしまった長居し過ぎてしまったなと立ち上がった。
「ごめんな真ちゃん、長く居すぎちまった。もう帰るわ」
高尾がそう言えば、真太郎は何か少し思案気な顔をしてから、では出前でも頼もうと言ってきた。
一緒に食べて行けというので、高尾は慌てて断った。
流石にこれ以上厄介になるわけにはいかない。
高尾は自分が部屋に招き入れられた時、真太郎が文机の上を片付けていたのを目にしていた。
きっと勉強の最中であったのだろう。
それを何の知らせもなしにいきなり邪魔するという無作法をしてしまったのはこちらなのだ。
あまつに出前まで馳走になるのは気が引けて仕方ない。
「気にするな。出前と言っても簡単なものなのだよ」
「いやそれでもさ!なんか勉強の邪魔しちゃったっぽいし、そこまで厄介になるわけには…」
「うるさい、食べていけ」
先ほどと同様、こうなれば真太郎は決して引かない。
正直な所もうこれ以上ここに居たくなかったのだが、高尾は渋々ながらまたちゃぶ台の前に座り直した。
電話を借りてくると部屋を出ていってしまった真太郎に、やはりなんとしても暇するべきだったのではないかと思ったが、
ああなった真太郎がそう安々と帰してくれるとは思えない。
それに自分は、幼い頃より存外あいつには甘いという自覚があった。
真太郎は整った顔立ちと、歯に衣着せぬ物言いで他の子供らから遠巻きに見られてしまうことがよくあった。
教室でももっぱら一人隅の方で本を読んで過ごしていたあいつに頻繁に話し掛けに行っていたのは、
間違いなく自分くらいであろう。
高尾は真太郎を好んでいた。
本を読んでいても、高尾が声をかければ渋々といった様子をしながら、それでも必ず本を閉じてくれたし、
黒板に書かれたチョークの文字を消す時、高尾の手が届かぬ上の部分を何も言わず消してくれたりした。
無口で無愛想な奴であったが、心根は不器用ながらも優しい男であった。
そんな真太郎を好ましく思い、口には出さぬものの一番の親友は真太郎であるということに、高尾はなんの疑問も持たなかった。
真太郎もなんだかんだ言いながら高尾が傍にいることを心底嫌がってる風には見えなかった。
いつしか二人は一対の関係だと認識され、一人でいると喧嘩でもしたのかと周りに心配されるほどになっていった。
高等教育を京で受けると真太郎が故郷を出ていくまで、それは続いた。
そんな関係だったから、大学からこちらに出てくる自分を案じた母が、何かあれば真太郎さんに言いなさいと言うのも
おかしなことではなかった。
奴の方がこちらの暮らしについては3年ほど先輩である。
なるほど、初めて親元を離れる息子にとってこれほど心強い者はないだろう。
だが正直な話、高尾は真太郎の元へ赴くつもりなど毛頭なかった。
正しく言えば、どんな顔を付き合わせればよいのかとんと分からなかったのである。
あれだけ仲睦まじかったのに何故と問われれば、説明するのに少しばかり気が引けるものがある。
とは言ったもののそれは本当に現実だったのか、夢だったのかではないかと言われれば、高尾には少し自信がなかった。
時が経てば経つほど記憶は朧気になっていくもので、あの時にはあんなに鮮明に脳裏に焼き付いていたはずの光景が、
今や断片的にしか思い出せなくなっていたのである。
あれは夏の盛りだった。
暑くて暑くて、汗が止めどなく流れてくる。
確か自分はその暑さに言っても仕方のないことと知りながら、ぶつくさと文句を垂れていたように思う。
隣には真太郎がいた。
汗は奴もかいていたように思う。
暑いだの寒いだのを中々顔には出さぬ男であったが、その時は流石に参っていたようで眉間の皺がいつもより濃かった。
それを見てきっと自分は笑ったのだろう。
なんらいつもと変わらぬ、夏の午後だった。
何年も繰り返してきた、真太郎との時間だった。
「高尾」
呼ばれたのを覚えている。これは確かなはずだ。
その声に、高尾は真太郎を振り返った。
なあに?真ちゃん。そう言うはずだった。
けれど振り返った先にあったのは思ったよりもずっと近くにいた奴の顔で。
それがスッと近づいてきたかと思うと、唇に何か柔らかいものが掠めていった。
真太郎の目は伏せられることなく、ずっと高尾を見つめていた。
高尾も微動だにすることなく、真太郎を見つめ返した。
離れたあいつの、唇が目に入った。薄い、少しだけひび割れて、けれど優しい唇だった。
その後は普段となんら変わりのない日々を過ごした。
真太郎は何も言わなかった。高尾は何も聞かなかった。
だから高尾には、あのふと空間の割れ目を割いて現れたような一瞬の間が夢か現なのか、記憶がおぼろげになってしまった今
判断が出来なくなったのである。
ただ夢であれ現であれ、一つだけ確かなことがあった。
あの、真太郎の唇が自分の唇と重なった一瞬、目を見つめあった数秒。
そのほんの数瞬のうちに、生まれ、そして終わらせなければならぬものがあった。
理解を示すことは、ほんの少し目を伏せるだけでよかった。
短い時の中、突拍子もなく訪れた瞬間は、けれど紛れもなく高尾にとっても真太郎にとっても、神聖な儀式そのものだった。
それが現実であれ夢であれ、高尾にとっては一つの思いが生まれ、そして終わったのがその時だ。
真太郎が故郷を出たのはそのすぐ後だったように思う。
それから今までの関係が嘘のように、真太郎とは新年の挨拶を文で交わすだけの間柄になった。
遠く離れた友人との関係など普通はその程度のものだろう。
そのことを自分より良くわかっているはずの母に、真太郎さんと喧嘩でもしたの?といぶかしまれた時は、
一体どれほど自分達は仲良く映っていたのだろうと少々気恥ずかしくなったものだ。
母が今朝方いきなり紙袋を押し付け挨拶に行くようにせっついたのも、早く仲直りしなさいというのもあったのだろうということは
わかっていた。
だが喧嘩などした覚えはないし、謝る言葉すら持たない自分にはただただ行き辛さのみが募るだけであった。
朝の電車の中ではそればかりのみ頭の中をグルグルと回っていたのである。
行くべきか。行かざるべきか。
知らせもしていないのに押し掛けるなど、迷惑になるだけではないか。
相手にも都合というものがあるのだから、いきなりというわけにも行くまい。
よし、では後日改めてこの菓子に簡単な手紙だけ添えて郵便受けにでも入れておこう。
そうだそれがいい。
街の中に組み立てられた線路の上を走る車に揺られながらそう考え、駅に降り立ったところまでは決心もついていた。
ところが改札を抜けていざ自分の足で歩いてみるとその心は容易く崩れ、暫しの思案を挟んだつもりが気付けば重い足取りながら
真太郎の元へと向かう自分がいたのだ。
ほとほと呆れたものだ。
軽く挨拶して済ますつもりが、結局上がり込み茶と菓子を馳走になり、終いには夕食まで頂かることになってしまった。
引き止めたのは真太郎であったが、断らなかったのは高尾である。
断れなかったわけではないことにはもう、高尾は自分で気づいていた。
「蕎麦を頼んだ。大したものじゃなくて悪いな」
「んなことねーって!夕飯貰えるだけでマジ助かる。ホントごめんな、世話かけちまって」
「引き止めたのはこちらなのだよ。お前が気にすることはない」
そうではないのだと高尾は思ったが、言葉にはしなかった。
勉学の邪魔もしてしまいすまないと謝ると、そちらも気にするなとたしなめられた。
せめてもと茶のかわりを淹れたが、それは自分がまだこの場に留まるつもりだと言外に告げただけの気がしてなんとなく
居たたまれなくなっただけだった。
それからも真太郎との話は弾んだ。
なんだかんだと思うところはあるにしろ、喧嘩をしたわけでも仲違いしたわけでもない。
積もった話もあったし時折流れる沈黙も息苦しいものではなかった。
何も変わらない。
それが良いのか悪いのか、高尾には判断がつかなかった。
やがて出前の蕎麦が届き、ちゃぶ台に二つ揃えると手を合わせた。
箸を持つ前に真太郎がかけていた眼鏡を外したのでどうしたのかと聞くと、湯気で眼鏡が曇るのだと言った。
蕎麦には半熟の卵と油揚げが乗っていて、随分と豪勢なものを頼んだなと驚く。
ただのネギ盛りなどで良かったのにと言うと、真太郎は俺がこれを好きなのだと言った。
「そなの?俺もこれ好きだわ」
高尾はきつね蕎麦が好きだった。
そしてまた高尾は、真太郎が好きなのは掻き揚げ蕎麦だと知っていた。
「ありがとね」
真太郎は何も言わなかった。
言葉にせずとも通じる何かは、自分達には昔からあった。
高尾が蕎麦を汁まで飲み干してご馳走様と顔を上げたら、真太郎の頬にネギがついているのを見つけた。
気付いていないようだったので、ネギがついているぞと教えてやる。
真太郎が眉を寄せて頬を擦るがどうにも見当違いの場所ばかり擦るものだから、ついに高尾は手を伸ばしてやることにした。
「ここだって」
「あぁ、すまん」
無事ネギを取ってやり引っ込めようとした高尾の手を、何を思ったのか真太郎が引き止めた。
眼鏡をかけておらぬ真太郎の目に見つめられて、高尾はあの日のことを思い出さずにはいられなかった。
酷く落ち着かない気持ちになり、早く振り払わなければならないと本能で悟る。
端から見れば男同士で手を取り合い見つめ合っているなどとは奇妙極まりない絵面だろうに。
払うのに些かの苦労もいらぬほどに力の入っていない真太郎の手は、こちらが身を引けば容易くするりと抜け落ちるだろう。
それだというのにその手は主である高尾の意思を全く介さぬというように、ピクリとも動かなかった。
もしくは、端からそんな意思などなかったのかも知れない。
すり抜けられると、終わらせられたと思っていて、けれど実際は思っていただけなのかも知れない。
たった一つの芽を、小さな小さな、親指と人差し指で容易く摘みとれるような思いを。
それでもその指をあの時自分は、動かせていたのだろうか。
真太郎は、動かせていたのだろうか。
やはりここに来たのは間違いであったのだ。
近付いてくる真太郎の顔に心の中で小さく謝罪しながら、高尾はゆっくりと目を伏せた。
その後、真太郎がもう夜も遅いから送って行こうと申し出た。
高尾がその申し出に、断りを入れることはなかった。
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