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その日、ある国の王様とお妃様の間に、一人の男の子が産まれました。
国中は喜びに沸き、人々は新しい王子の誕生を祝って手を取り合い踊りました。
王様はあくる日3人の良き魔法使いをお城へと招待しました。
魔法使い達は王子の誕生を心から祝福し、一人一人王子に贈り物を授けました。
一人は誰からも好かれる愛らしい容貌を。
一人は人々の心を優しく揺らす綺麗な歌声を。
そしてもう一人の魔法使いが最後の贈り物を授けようとした時、それはやってきたのです。
『やぁ王様。元気だったかい?僕を呼んでくれないなんて酷いじゃないか』
それは、遠い東の森に住んでいると言われている魔法使いでした。
魔法使いが現れた途端、綺麗に澄み渡っていた空にはみるみるうちに灰色の雲がかかり雷雨が鳴り響きような空模様に
なってしまいます。
ゴロゴロと雷が鳴る中、魔法使いは王子の元まで歩み寄るとその柔らかい頬をそっと撫でました。
『これはこれは、可愛らしい子だね。じゃあ僕からもこの可愛らしい王子に贈り物をしようかな』
魔法使いは楽しそうに笑いながら、まるで猫をあやすような声で言いました。
『この王子は16歳の誕生日を迎えずに、糸車の針に刺されて死ぬだろう。短い余生せいぜい可愛がってあげなさい』
僕の贈り物は喜んでくれるかな?と、魔法使いは高らかに笑いながら煙に巻かれたと思うと瞬く間にその場からいなくなって
しまいました。
魔法使いが現れてから恐怖で氷のように動けなかった周囲の人間が、ざわざわとざわつき始めます。
『王子が悪い魔法使いに呪われてしまった!』
『王子に死の呪縛がかけられた!』
騒然となったその場を収めるべく声をあげたのは、まだ贈り物を授けていなかった最後の魔法使いでした。
『大丈夫。王子は死なずに、眠りにつくだけ。そして王子は、真の恋人からのキスによってその眠りから目覚めるでしょう』
王様はその後国中の糸車を集めて燃やしました。
そしてその悪い魔法使いの手がかからぬようにと、王子は3人の良き魔法使いの手に預けられたのです。
♡ ♡ ♡
あるところに、三人のお兄さんと仲良く暮らす男の子がおりました。
彼の名前は黒子。
艶やかな水色の髪に、大き目のクリリとした水色の瞳、そして唇はほんのりと桜色に色づいた少し幼げな雰囲気の男の子
でした。
男の子は兄達と一緒に森の中で暮らしていました。
物心ついた時から森の中で暮らしていた黒子は、この森から出たことがありません。
外は危ないからと、兄達が森の中から出ることを、決して許してくれなかったからです。
幼い頃外の景色が見たいと強請る黒子に、兄は一つの約束をしてくれました。
『黒子が16歳になったら街に連れて行ってあげる』
この森から一番近い街には大きなお城があるんだよと兄達から聞いていた黒子は、どんな所なんだろうといつもワクワクと
想像を膨らませていました。
やっぱり賑やかなのかな?いっぱい人がいるんだろうか?どんなものがあるのだろう?きっとたくさん珍しいものがあって、
とても楽しい所なんでしょうね。
黒子は時折街に出る兄達からその場所について色々な話を聞きながら、自分もその街へ行く日のことを大層楽しみにして
いました。
そんな黒子の16歳の誕生日も、ついに明日に迫ったある日のこと。
黒子は窓から差し込む朝の光に起こされ、ベッドの上で未だ少し重たい瞼を持ちあげました。
まだ夢うつつの緩やかなまどろみの中で、黒子は『あぁ、またあの人に会えた』と小さく笑いました。
最近黒子は夢を見るのです。とても素敵な男の人に会う夢を。
その夢は毎日というわけではありませんが、2年ほど前から時折見る夢でした。
体を起して服装を整えながら、夢の中の出来事を思い出しては黒子は幸せな気持ちになりました。
最初に夢に見た時は幼さを残していたその人でしたが、会う度に成長していることが窺えます。
初めのうちもそこまで大差のなかった身長も、今では多分彼の方が20㎝以上は高いでしょう。
少し悔しい気持ちになることもありましたが、彼はいつもそんな自分の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら「でかくて不便なことも
多い。それぐらいのサイズが丁度いいと思うけどな」と笑ってくれました。
彼のそんな笑顔を見る度、黒子の心はポッと小さな火が灯ったように暖かくなるのです。
そう、黒子は、この夢の中の彼に恋をしていました。
大きくて、頼りがいがあって、だけどどこか子供っぽくて、暖かな掌を持っている人。思うだけで、自分を幸せにしてくれる人。
ただの自分の愚かな幻想だとしても、いつかどこかで出会える日を願うことを、黒子は止められませんでした。
「黒子ー?黒子、起きてるか?入るぞ?」
扉の向こうから聞こえる兄の声に、黒子はハッと我に帰りました。
どうやら優しい夢の思い出に浸っている間に、随分時間が過ぎてしまったようです。
時間になっても下りてこない自分を心配して、兄が様子を見に来てくれたのでしょう。
ひょこりと扉を開けて顔を出したのは、真ん中の兄でした。
その兄は、名前を高尾といいました。
「あれ、起きてるじゃん。おはよう。早く来ないと朝飯冷めちまうぞ?」
それともどこか具合悪いのか?と心配してくれる兄に挨拶を返しながら、黒子は大丈夫だと首を振りました。
少しだけ残っていた身支度を素早く整えて、高尾と一緒に下の階へ降ります。
そこには、上の兄と下の兄がもう朝食を食べ終えて出かける準備をしていました。
「おはようございます」
黒子が朝の挨拶をすると、二人共から返事が返ってきました。
下の兄―――降旗が寄ってきて、黒子に家の鍵を差し出します。
そして紐を通してネックレス状にしたそれを黒子の頭に通しました。
「今日お兄ちゃん達揃って出かけるから、どこかに遊びに行くなら家に鍵を掛けて出かけるようにね。陽が落ちるまでには
戻ってくるから」
首から下げられたそれは、鍵を無くさないようにと黒子用に作られたそれでした。
年に一度ほど兄達が3人揃って外出することがあり、その時だけ黒子にこの鍵が預けられるのです。
「なるべく早く戻ってくる。余り遠くには出かけないようにな。危ないこともしないこと。湖で泳いだりしてもダメだからな」
そして細かく注意点を黒子に告げたのが、上の兄である若松でした。
若松は少し心配症です。有難いことではあるのですが、この年にもなると「もう子供じゃないんだから」と黒子は少しだけプクリと
頬を膨らませることが多くなりました。
自分が些か過保護だという自覚はあるのか、黒子がそう言うといつも少しだけ気まずげに頬を掻くのが若松の癖です。
高尾はそんな兄の微笑ましい顔にひとしきり笑ってから、黒子に大きな林檎を一つ渡しました。
「お昼も用意してるけど、外に出かけるなら持って行きな。今日は天気もいいし、外で食べるときっと美味しいぜ」
艶やかに光る林檎を、黒子は礼を言いながら受け取りました。
街へと出かけていく3人の兄達を見送りに、共に家の扉へと向かいます。
「あ、そうだ」
そこで若松が思い出したように声を上げました。
「黒子の誕生日のお祝い、今日帰ってきたら一緒にするからな」
若松がそういうので、黒子はえ?と目を瞬かせました。
黒子の誕生日は明日なのです。なのに何故今日お祝いをするのでしょうか。
不思議に思っていると、若松が少しだけ真面目な顔をして黒子の名を呼びました。
見てみれば、下の兄二人は笑って、けれど目にはどこか緊張を滲ませて黒子を見ています。
「詳しくは、今日帰ってきたら説明する。明日は一緒に街へ行くからな、それだけ言っとくわ」
よく理解できないながらも、黒子は兄の言葉にコクリと頷きました。
16歳になったら街へ連れて行ってくれる。それは幼い頃からの兄達との約束でした。
きっと兄はその約束は守らなければと思いながら、けれど心配だからこんな顔をしているのだろう。黒子は自分の中でそう結論
付けると、街へと出かけていく兄達を手を振って見送りました。
兄達の姿が見えなくなってから、漸く黒子も朝食の席につきました。
真っ赤な林檎はいつも外に出る時に持ち歩くバスケットの中に入れました。兄の言う通りきっと外でたくさんの動物達と共に食べると
さぞかし美味しく感じることでしょう。
黒子はそれを楽しみにして、朝食を食べた後は簡単に家の掃除などをしてお昼までの時間を過ごしました。
床掃除、窓拭き、お風呂掃除。兄達が出かける日はいつも黒子が一人で掃除をこなします。
いつも兄と一緒にやるとすぐに済んでしまうお掃除も、一人だと流石に時間がかかります。
今日は起きてきたのも少し遅かったこともあってか、掃除が済む頃には太陽は既にてっぺんを少し通り過ぎてしまっていました。
黒子は兄が用意してくれたお昼ご飯を食べると、掃除で少し汚れてしまった服を着替えました。
新しい洋服に身を包むとバスケットを手に持ち、兄から預かった鍵できちんと扉に鍵をかけて、さぁ出発です。
「今日はどこへ行きましょうか」
と言っても、黒子が行動できる範囲は森の中。そしてその中でも余り深い所へ行ってはいけないと言いつけられているので、
行動範囲は広くありません。
けれど決して狭くない森の中、兄達と見つけた遊びの場所はたくさんありました。
そこでふと、黒子は今日の夢で見た景色を思い出しました。
澄んだ水が風に揺れて静かな波紋を描く湖。椅子に丁度いい少し大き目の切り株。そこに腰掛けて、黒子はあの人とお喋りを
楽しんでいました。
いつもあの人と、特別に何をするわけでもないのです。
ただ二人で共にいる空間を過ごすだけ。でもその空間は、黒子にとって堪らなく居心地の良いものでした。
今日は確か、いつもより話が弾んだはず。
明日が誕生日なんですと言えば、あの人はまるで自分のことのように嬉しそうにおめでとうと言ってくれました。
兄が街へ連れて行ってくれると約束しているのだと言えば、じゃあそこで会えるかもなと言ってくれて。
「そうだ、街へ行けば、あの人と会えるかも知れないんですよね」
それは、ほんの一粒の大きさにも満たない可能性かもしれません。
けれど黒子は、きっと会えるはずだと心を躍らせました。
今日は湖へ行こう。夢の中であの人と会った、あの湖へ。
黒子はまるで踊るような足取りで、湖へと向かいました。
♡ ♡ ♡
所変わって、お城では明日の王子の盛大な婚約パーティの為に、侍女や召使がせわしなく走り回っていました。
「王子もついに婚約ね!」
「噂によると、相手はお隣の国の王子様らしいわよ。なんでも王様達が旧知の仲で、お互い2番目に生まれた子供同士を結婚させる
約束をしていたとか」
「どちらも第一王子にもうお子様がいらっしゃるから、男同士でも全く問題はないわよね。私は王子が幸せでいらっしゃればいいわ」
お喋りな侍女達がそうして囁き合う中、当の王子は酷く鬱屈そうな顔で中庭の池にチャポンと石を放り投げていました。
波紋が立つ水面を見つめては、はぁとため息をついています。
侍女達が願うような幸せなものとは、程遠いところに王子はいるように見えました。
「どうした火神。そんな憂鬱そうな顔して」
そんな王子に声をかけたのは、王子の兄でありまたこの国の第一王子でもある木吉王子でした。
「憂鬱にもなるよ。結婚なんて、俺相手の顔も知らないんだぜ?……ですよ」
木吉王子が正式に次期王位継承者として王太子になってからは、なるべく敬語を使うようにしている火神王子でしたが、慣れて
いないものでどうしても取ってつけたようなもになってしまいます。
しかし木吉王子は別にそれを気にすることも注意を促すこともなく、朗らかに笑いながら火神王子の隣に座りました。
優しく大きな大木のようなこの兄を、火神王子はとても好きでした。
幼い頃から悩みも秘密も全て打ち明けて、苦楽を共にしてきた大好きな兄です。
そんな兄に対して火神王子は今の気持ちを隠すようなことをするはずもなく、また新たに手元にあった石を池に放り投げながら
木吉王子に不満を漏らしました。
「第一俺まだ16なのに結婚なんて……そんな急ぐようなことでもないのに」
「まぁ俺達の結婚が早かったからなぁ。父上達もちょっと価値観が狂ってしまったのかも知れない」
木吉王子は、去年今の王太子妃と結婚し子供が一人います。
元気な甥っ子を火神王子も大変可愛がっていました。
そして木吉王子は隣国の王子である、青峰王太子が結婚したことも王様達が火神王子の結婚を急がせる理由になってのではと
言います。
隣国の青峰王子と火神王子とは同じ年で、幼馴染のような関係でした。
実は火神王子が明日結婚することになる相手が、この青峰王子の弟である王子様なのですが、火神はこの王子様を時々遊びに
行くお城の中でも見たことがありませんでした。
訳あって少し遠方に療養していると聞いたことがありますが、今まで写真ですらもその姿を見たことがありません。
しかもこの結婚のことだって、一週間前にいきなりさも今思い出しましたというように王様に告げられたのです。
質実剛健として名高い火神王子には、顔も見たことない王子と結婚などとは考えられませんでした。
「てかその人、王子ってことは男だろ?そいつもいきなり男と結婚しろ、しかも嫁げとか。可哀想だろうが」
「そうだな。確かにいきなりだったもんな。政略婚になるのかどうかはわからないが、恋愛婚でないのは確かだし」
「だろ?話聞いた時は流石に頭来て親父殴っちまった。母さんにすげぇ爆笑されたけど」
「んー、相変わらずな両親だな。でもお前息子だろうと一国の王様殴っちゃダメだぞ。短気な奴め」
ほんわり笑いながら木吉王子は火神王子にそう注意します。
でも火神王子がちゃんと反省していることはわかっているので、そこまで怒るようなことは言いませんでした。
因みに王様にはきっちり殴り返されました。王様はやられたことは四の五の言わずやり返す主義なのです。
「なぁ火神、お前一回その王子と会ってみたらどうだ?」
「え?会ってみるって?」
「父上から聞いたんだが、その王子様は今森で暮らしているそうだ。一度二人で話し合って決めればいい」
この結婚は本当に互いの王様の口約束でしかなく、二人が嫌と言えば「えー残念」ですむ話でした。
それもそうか、と火神王子は頷いてスクリと立ち上がります。
「森って、あの隣の国との間にある森だよな?」
「そうそう。そこまで深い所まではいかないらしいんだけどな」
「わかった。ちょっと行ってみる。サンキュ」
火神王子はそう言うと、早速行ってこようとその場を後にしました。
その姿を見送りながら木吉王子はこっそりと笑います。
幸せになりなさい。木吉王子は、火神王子とまだ見ぬ王子様が二人で笑い合うことが出来ますようにと、そっと祈りました。
♡ ♡ ♡
黒子は森の奥の少し手前、綺麗な湖のほとりへやってきました。
ここにはたくさんの動物が住んでいます。
久しぶりに湖へやってきた黒子を、ここに住んでいる動物達が歓迎するかのように集まってきました。
鳥が嬉しそうに囀ります。兎が黒子の周りを楽しげに飛び跳ねます。狸の子供が巣穴から這い出て来て、その後ろ姿を見送る
ように親狸が巣穴の入り口から顔を出しました。
黒子が切り株へ腰掛けると、たくさんの動物達が黒子の周りを囲みます。
膝の上に乗って来た兎の頭を一つ撫でながら黒子は久しぶりですねと笑いました。
黒子は兄達以外の人の姿を見たこともなければ、話をしたこともありませんでした。森から出たことがないからです。
そしてこの森に出入りする人間も滅多にいないようでした。
ですから黒子に人の友達というものはいませんでしたが、その代わりたくさんの動物達に囲まれて暮らしてきました。
この森の動物達は、皆黒子の友達なのです。
ふと一羽の小鳥がバスケットの中を覗いていることに黒子は気付きました。
「あぁ、林檎の匂いがしたんですか?」
黒子はバスケットから、今朝兄に貰った林檎を取りだすと、パキリと二つに割りました。
一つを自分の口へ、そしてもう一つを動物達に与えてやります。
動物達は各々おいしそうにそれを啄んでいました。
「美味しいですね。こんなに甘い林檎を食べたのは久しぶりです」
真っ赤な大きい林檎は、とても甘く瑞々しさに溢れていました。
シャキシャキとした歯ごたえがとても気持ち良く、動物達も気に入ったようです。
黒子は半分ほど食べた林檎の残りを、後からきた動物にあげてやりました。
動物達は嬉しげに黒子に礼を言います。
幸せや楽しみは分けあって共有してこそ嬉しいのだと、黒子は笑いました。
「今日、久しぶりにあの人の夢を見たんですよ」
偶に見るあの幸せな夢を、黒子はいつも動物達に話して聞かせていました。
どこかうっとりと口を開く黒子はとても綺麗で、動物達も思わずほぅと息を吐きました。
「この切り株に腰掛けてあの人とお喋りしていました。とても、幸せだった……とても」
例え一時の夢であってもその時の黒子は確かに幸せでした。
けれど、やはり夢。いずれは覚めてしまうもの。目を覚ました時に感じるのは、どうしても幸せな気持ちだけではないのです。
現実に会えない寂しさが、黒子の薄らと色づく頬に影を落としてしまうのでした。
表情を暗くしてしまった黒子に、動物達が心配そうに黒子の手にすり寄りました。
元気を出して。動物達のそんな声に、黒子はいつも励まされるのです。
小鳥達がピィピィと歌を奏で始めました。
リスが黒子の肩にのぼり、尻尾で優しく黒子の頬を撫でます。
黒子はリスの頭を指で優しく撫でると、鳥の囀りに合わせて小さく歌い出しました。
その歌は、あの人を想う歌。
あの夢のように、きっといつかあの人に会える日が来ると信じさせてくれる歌。
黒子の優しく透き通った歌声は、風に乗って湖の水面を撫でながら流れていきます。
「あの夢と、同じように……」
その時、かさりと湖の向こうの背の高い葦の草が動いたのを黒子は見ました。
黒子の傍に寄りそっていた動物達の耳が一斉にピクリと動き、彼らの意識が草の向こうへと向かいます。
やがて草が掻き分けられ、一人の男の人がそこから顔を出しました。
「っ!?」
初めて兄以外の人の姿を見た黒子は、驚いて思わずその場から立ち上がりました。
いきなり大きく動いた黒子に驚いて動物達も木々の後ろへと逃げ隠れてしまいます。
黒子は知らない人間に怖くなって、慌ててその場から逃げだそうとしました。
「ちょ、待ってくれ!うわっ!」
後ろでバシャン!と大きく水音がして、黒子は足を止めて振り返りました。
先ほどまでそこにいた男の人の姿がありません。
しかし、さっきまで風に揺れるだけだった水面が、とても大きな波紋を作っています。
「もしかして……落ちた!?」
この湖は少し深くなっていて、黒子では足が届きません。
黒子は持っていてバスケットを放りだすと、湖に走り寄りました。
このままだとあの男の人は溺れて死んでしまうかもしれない。
黒子は狼狽えながら湖を覗きこみました。
「どうしよう……」
どうすればいいかわからなくて、黒子はそっとその指先で水面を撫でました。
その時、水の中からにゅっと手が現れ黒子の腕をガシッと掴んだのです。
「……っ!!」
声も出せないほどに驚いた黒子が、体を石のように固くさせます。
プハッという声と共に湖の中から顔を出したその人は、先ほど黒子を呼びとめた男の人でした。
その人は自分の掴んでいるのが黒子の手だとわかると、少し焦ったように謝りながらその手を離します。
黒子は掴まれていたその手を自分の胸元に引き寄せて、湖から上がってきたその男の人を見つめました。
精悍な顔立ちに、すらりと伸びた体躯。引き締まったその体を滴る水滴に、黒子は目を奪われました。
「わ、悪ぃ!、驚かせるつもりじゃなかったんだ。えと、怖がらせたよな。ホントごめん」
しゃがみ込んだ黒子に合わせるようにその人は足を折り、黒子に手を差し伸べます。
黒子は戸惑いながらもその手を取りました。
大きく暖かい掌。それはまるで、あの夢の中の温もりと似ているような気がして、黒子は肩に入っていた力を少しだけ抜きました。
「さっきの歌歌ってたのって、お前?」
そう言われ、黒子はカァと頬を染めました。まさか誰かに聞かれているなんて思ってもみなかったのです。
「あの……あれは、えっと……」
「いつもここで歌ってるのか?」
男の人の問いかけに、黒子は少し迷いながらも小さくコクリと頷きました。
手を引かれて促されるように立ちあがると、その人はじっと黒子の目を見つめて、優しく笑いかけました。
「あ、あの……」
その人に聞きたいことが、たくさんありました。
けれどなんて言葉にすればいいかわからなくて、黒子の口は小さくパクパクと動くだけで声になりません。
男の人はそんな黒子を切り株に座らせると、その前に跪き少し下から黒子の目を覗きこんで言いました。
「もう一度、歌ってくれないか?」
まるでブラックチェリーのように、光の加減で赤くも黒くも見えるその瞳に吸い込まれそうだと黒子は思いました。
そっと頬に添えられた手を握り返しながら、口を開きます。
夢の中の貴方に、何度も歌った曲を。
一人の時はちょっぴり寂しさが混ざってしまうのを、きっと貴方には隠せないに違いありません。
黒子が紡ぐ歌を、いつしか夢の中のあの人も覚えていました。
夢の中貴方が口ずさむ声は甘くて優しくて、耳の奥でとろりと溶けてしまう。
いつしか重なっていたもう一つの音と共に森の空気を震わせた黒子は、とても心地よさそうにうっとりと目を閉じました。
そして、彼に問うことなど初めから何もなかったのだと黒子は気付いたのです。
ただこの掌の温もりを感じ、共に歌を口ずさめば、それだけで。
その森の動物達はいつも黒子の切なく優しい声を聞いていました。
ところがどうでしょう。今の黒子の歌声は胸が温かくなるような幸せだけが満ちています。
動物達は木の蔭からそっと二人を見守り、時折互いの顔を見合わせました。
きっとあの人の声に包まれているからだよ、と、誰かがそう呟きました。
頬を優しく撫でる手に、黒子は目を開きます。
何も言わずともその人は黒子の言いたいことがわかったようでした。
「俺は、火神。火神大我だ。大我って呼んでくれ」
「大我君……」
黒子がそう名前を呼ぶと、火神王子は嬉しそうに笑いました。
その笑顔が本当に嬉しそうだったので、黒子は早く彼にも自分の名を呼んで欲しいと思いました。
「僕は黒子です。黒子、テツヤ」
「そうか……テツヤ」
やっと呼べた。やっと呼んでくれた。
二人は互いの目を見つめあうと、どちらからともなく笑いだしました。
「やっと会えました」
「あぁ、会いたかった」
それは決して、夢の中だけの話でないと。信じられたのはきっと、貴方だったからなのでしょう。
二人は漸く出会えた喜びに、ひしと抱き合いました。
♡ ♡ ♡
いよいよだな、と若松が小さく呟いたのを高尾は聞きました。
「長かったような、短かったような……」
この15年、4人で楽しく過ごした日々が若松の脳裏に過ります。
最初は子供の面倒など見れないと狼狽えていた自分が信じられないほど、あの子はいつしか若松の中でかけがえのない大切な子に
なっていました。
「寂しい?若松サン」
「別に……」
「俺は寂しいよ。皆といるの、楽しかったから」
小さな小さな王子様は、いつしか誰の手を借りずとも立派に歩いて行けるほど大きくなっていました。
彼を守る役目も今日1日が過ぎればもうお終いなのです。
少しだけ俯きがちに、それでも無理やりに笑おうとする高尾の頭を、降旗が優しく抱きました。
16歳の誕生日まで。それが3人の魔法使いと王様が交わした約束でした。
この国の第二王子として産まれ、けれどその後すぐ呪いをかけられてしまった黒子を引き取り、兄として弟として過ごした時間は、
魔法使いとして人の何倍もの時間を過ごしてきた彼らにとって決して長くはない時間のはずでした。
けれどその間に積み上げられたものは気付けばとても高くなっていて、手放しがたいほど愛おしいものとなっていたのです。
別れの日が近づく毎に、何度この時を止めてしまいたいと願ったことでしょう。
それでも、人というのは成長するもの。別れも出会いも時の流れ。と、3人は今日という日を迎えました。
お城の謁見の間。今日は3人で黒子王子の無事と明日の予定を滞りなく進められる状態であることを王様へ伝えに来ていました。
「3人とも、よく王子を無事ここまで育ててくれました。ありがとう」
お妃様が3人に深く頭を下げます。
王様もそれに倣うように軽く目を伏せました。
「今日を越えられればもうあの子を脅かすものもありません。早くあの子をこの目で見たい」
産まれてすぐに最愛の我が子を魔法使い達に託すことを決めたお妃様も、きっと身を引き裂かれるような思いだったに違い
ありません。
全ては王子の未来と幸せの為に。この場に居る全ての者達がそれを願っていました。
「王様、お妃様、大丈夫でございます。無事明日には王子をこちらにお連れ致しますから」
「そうです。いかに東の魔法使いが大きな力を持っていうと、こちらは3人いますからね!」
「今日という日が終わるまで、王子様を守りきってみせます」
若松と高尾と降旗は、そう言うと揃って頭を下げました。
王様とお妃様は安心したように頷くと、二人で顔を見合わせて喜びました。
そして王様はその場にスクリと立ち上がると、改めて部屋中の者達へと告げます。
「明日、我が息子、黒子王子が城に帰還する。歓迎の宴の準備、並びに、隣国の火神王子との結婚の儀の準備を!」
王様のその言葉に、広間に集まっていた部下達が一斉に頭を下げ各自に与えられた仕事へと移って行きます。
やがて広間にいたたくさんの部下達はそれぞれの持ち場へ戻って行き、広間には王様とお妃様と魔法使い達、そして数人の
側近と宰相だけが残されました。
広間へ通じる全ての扉が厳重に閉じられたのを見届けると、王様がふぅと息を吐きだらりと格好を崩しました。
「あ~……しんど」
さっきまでの威厳と凛とした姿はどこへやら、たちまち力の抜け切った姿を見せる王様に相変わらずの猫被りだなと
魔法使い達は苦笑を隠せません。
王様はドサリと椅子に腰を下ろし、服のポケットに隠し持っていたらしいチョコバーをムシャムシャと食べ始めました。
隣のお妃様はさっきまでの穏やかな笑みを崩し、肘かけに頬杖をついて足を組んでいます。
「全く。仕事とはいえやはり形式ばったことは疲れる。お前達もいつまでも畏まってないで普段通りでいいぞ」
そうお許しが出た魔法使い達は、それぞれでは遠慮なくと言って銘々に立ちあがりました。
若松は重たい茶色のローブを脱ぐと、それを小脇に抱えて先ほどまで数人の爵位持ちが座っていた椅子に腰掛け、降旗はその隣に。
高尾は宰相である緑間の元へと駆け寄りました。
「真ちゃん!おひさ~っ」
「一昨日も城までほいほいやってきていた奴が何を言う。今は魔法使いも希少種なのだからあまり軽々しく往来を出歩くもんじゃ
ないのだよ」
「あ、心配してくれてんの?優しい~!侍女の子に林檎預けたんだけど受け取った?」
「あぁ、たくさんあったから桜井にアップルパイにして貰った。まだ残っているが食べるか?」
「マジ?いいの?やった!じゃあ頂いていこ」
「え、ミドちん昨日もうないって言ったじゃん!嘘つき!」
「うるさいのだよ紫原!お前はもうワンホール食べただろう!食い過ぎなのだよバカめ!」
先ほどまでの粛々とした空気はどこへ行ってしまったのでしょうか。
王やお妃様の前だというのに、いえ、王様に対しても口の聞きようがまるで気心の知れた友のようです。
それもそのはず。宰相である緑間と王である紫原は小さい頃からの幼馴染であり、お妃様はその二人の姉のような存在でした。
魔法使い達とは3人ともほとんど産まれた頃からの付き合いです。
この顔ぶれで集まる時に、お互い堅苦しい仮面など必要ではありません。
自由に各々が久しぶりの逢瀬を楽しむ中、不意にガチャリと広間の扉が開きました。
全員の視線がその扉に集まります。そこから入って来たのは、まるで村人のような風貌をした青峰王子でした。
「あー峰ちんまた城下町まで勝手に降りてってたっしょー」
本来王族が護衛もなしにホイホイと町へ降りるのは禁止とされているのですが、青峰王子はそんなの知ったことかとばかり
度々城を抜け出ては城下町へと遊びに出かけて行くのです。
ずるいと口を尖らせた紫原王も、昔は抜け出しの常習犯でした。
この親にしてこの子あり、とはまさにこのことです。
「青峰ぇ!!お前また抜け出して、危ねぇだろバカが!!」
そんな青峰の姿を見て、声を荒げたのは若松でした。
高尾と降旗はそんな若松の姿を見て、またかと笑います。
若松は自分では子供が苦手だと思っているようですが、元々が世話焼きな体質なのか青峰王子のことも幼少の頃からなんだかんだと
面倒を見たり遊び相手になったりしていました。
最近年頃なのか反抗的になった青峰にも、いつもめげずに食って掛っています。
放っておけばいいのにと思いつつも、降旗も高尾もそれを止めるようなことはしません。
何故ならそれが、青峰王子なりの若松への甘え方だとわかっているからです。まぁそれを若松がわかっているのかは微妙な所ですが。
青峰と実のならない言い合いをしている若松を見ながら、今日を過ぎればこの風景を見ることはもうないのかと高尾は少しだけ寂しく
なりました。
魔法使いである高尾達は、普段あまり人前に姿を現すことはしません。
先ほど緑間も魔法使いは希少種と言っていましたが、昔はたくさんいた魔法使いも今ではもう片手で足りるほどの人数にまで減って
しまっていました。
それは暗い歴史の影。人々から恐れ敬われる魔法使いにとって、いつしか人の世は生きていくには少し辛いものになってしまったの
です。
なので黒子の一件が済めば、三人は共にここから遠い地へと離れるつもりでした。
この風景も、今日が見収め。これからはまるで我が子のように慈しんだこの子達を、もう遠くから見守るだけになるのです。
健やかに。幸せに。3人が共に願うのは、ただそれだけでした。
そしてその度高尾は思うのです。
―――どうしてあの子は、あんなことを言ったのだろう……と。
「……高尾?」
緑間の呼びかけに、高尾はハッと我に帰りました。
不思議そうな顔で自分の顔を覗きこんでくる緑間に、高尾は笑いかけます。
「何でもないよ、真ちゃん」
高尾はそう言って緑間の顔の横でパチンと指を鳴らしました。
現れたのは、可愛らしいベルのような花をつけた一房の花。それを、緑間の胸ポケットにスッと差し込んで上げました。
願わくば、祝福を。
愛おしい貴方へ。離れていても、貴方の幸せを心から願っているよ。
♡ ♡ ♡
湖を眺めながら、一体どれほどそうしていたでしょうか。
黒子と火神王子は時折短い言葉を交わし合いながら、ただその静かな風景の中にいました。
聞きたいこと、話したいことはたくさんあるはずでしたが、今はこの緩やかに流れる時の中お互いの温もりを感じ合っていたかった
のです。
けれど何事も別れの時間というのは来るもの。
後少し、もうちょっと、そう自分に言い訳をしながら伸ばした時間でしたが、もうこれ以上は流石に伸ばせません。
そろそろ兄達が町から帰ってくるでしょう。家に帰った時に黒子がまだ戻っていないとなれば、きっと心配するはずです。
黒子は後ろ髪を引かれる思いで、その場から立ち上がりました。
「すいません、もう僕帰らないと……」
名残惜しげにそう告げる黒子に、火神王子が手を差し出します。
「また会えるか?」
黒子は差し出したその手に自分の手を重ねながら少し悪戯っぽく言いました。
「夢の中でなら、きっと」
重ねられた黒子の手を、火神王子が優しく包むように握りました。
「夢では嫌だと言ったら?」
優しく手の甲を撫でる火神王子の指に黒子はくすぐったそうに笑います。
立ちあがった火神王子の目を真っ直ぐと見て、今この人と自分は確かに同じ気持ちなのだと確信しました。
「明日の朝、太陽が顔を出し始めた頃に」
黒子のその言葉に、火神王子が嬉しそうに頷きました。
そっと黒子の手の甲にキスを落とした火神王子は「必ず」と約束します。
唇が触れたところからじんわりと熱が広がって行くような気を覚えながら、黒子は少し恥ずかしげに顔を伏せました。
「そろそろ陽が沈むな。気をつけて帰るんだぞ。……また明日」
「はい。また明日……」
黒子は家に帰る道すがら、湖が小さくなって見えなくなるまでに何度も後ろを振り返りました。
その度火神王子はまだそこに居てジッと自分を見つめていました。
やがてその姿も小さくなり見えなくなる頃に、黒子はもう堪らなくなってダッと走り始めました。
色々な思いが胸の中を巡ります。
会えて嬉しかった。一緒にいれて楽しかった。幸せだった。別れ際酷く寂しくて悲しかった。そして、「また明日」という約束を
交わした。
どうしようもなく堪らなく逸るこの気持ちが、黒子の足を走らせました。
「また明日」。それは、夢の中では出来なかった約束です。
「またいつか」「またどこかで」そんな不明瞭な言葉ではありません。
明日という確かな約束に、黒子の心ははちきれんばかりに高鳴っていました。
黒子が息を弾ませながら家に着く頃には、もう陽は沈んでしまっていました。
もしかしたらもう兄達が戻ってきてるかも知れない。
心配をかけさせてしまっただろうかとドアノブを捻りますが、ガチャリという音がするだけでドアは開きませんでした。
「あ、まだ兄さん達帰ってきてないみたいですね」
黒子が首にかけていた鍵を使ってそれを外し、扉を開けたその直後。
パン!パン!パン!という大きな音と共に、細いリボンと紙吹雪が黒子に振りかかりました。
余りに突然のことに半ば茫然となった黒子が目にしたのは、クラッカーをこちらに向けてしたり顔で笑う若松と、黒子の反応に
爆笑する高尾、そしてニコリと笑う降旗でした。
「黒子!誕生日おめでとう!」
3人の声に、黒子は思わず両手で口を覆いました。
まさかのサプライズにまんまと引っ掛かった黒子に、兄達が嬉しそうに笑います。
高尾に腕を引かれテーブルの傍まで寄ると、4人掛けのそこには所狭しと豪勢な料理が並んでいました。
2段になった大きなケーキもあります。蝋燭を数えると、黒子の年の数と同じ16本きっかりと並べられていました。
今の気持ちを、何と言葉で表現すればよいのでしょうか。
促されるまま椅子に座り、自分を囲む兄達の顔を一人一人見つめます。
「あ……」
目を潤ませる黒子の髪を、降旗が優しく撫でました。高尾と若松も嬉しそうに笑います。
黒子が何も言わずとも、3人にはこの顔を見るだけで黒子がどんなに喜んでいるのかが伝わってくるようでした。
「ありがとう、ございます……っ」
ついには泣きだしてしまった黒子がやっとのことその一言を絞り出します。
「ったく黒子は泣き虫だなぁ。ほらほら、早く泣きやめー」
「折角の料理が冷めちまうぞ。って降旗、何お前まで釣られて泣いてんだよ」
「だって……っ。あんなに小さかったのに、こんな……こんな大きくなって~~っ」
降旗の言葉に、高尾と若松も確かにそうだなと笑いました。
この時が来なければいいと思ったことも何度もあります。けれどやはり、大きくなっていく黒子を見て成長を感じる度に
湧き上がるのは誇らしさと喜びで。
どうか幸せに、と。願うのはやっぱり、それだけなのです。
ひとしきり黒子と降旗が泣いて、高尾が笑って、それが止み始めたところで若松が皆を食事へと促しました。
少しだけ冷めてしまったディナーは、それでもとても美味しくて、食の細い黒子にしては珍しくたくさん食べました。
切り分けられたケーキには黒子の好きなバニラアイスも添えられて、お腹がいっぱいになっていたはずなのにも関わらずペロリと
食べてしまいます。
あんなにたくさんあったはずの料理もケーキも、気付けば綺麗になくなっていました。
腹ごなしも兼ねて片づけは黒子も手伝いました。
高尾の洗うお皿を受け取り、布巾で水を拭っていく係です。
その横で降旗は食後のお茶を淹れていました。
「よし、これで最後」
綺麗に洗い終わったお皿を黒子に手渡して、高尾は蛇口の水を止めました。
後ろを振り返ると、降旗と若松がテーブルに着いて少し固い表情をしているのが見えます。
いよいよ、黒子に本当のことを告げる時が来たのです。
「黒子、終わったか?さぁお茶にしようぜ」
意識して明るい声を出し、黒子の背を押しました。
黒子は幸せそうに兄達の待つテーブルへと足を向けます。
暫くお茶を飲みながら、4人で談笑していました。
時折高尾と降旗からチラリと窺わし気な視線が若松に送られてきます。二人の言いたいことは、若松にも痛いほどにわかって
いました。
伸ばせば伸ばすほど大切なことは言いだしづらくなるもの。若松はテーブルの下でグッと拳を握ると、意を決して口を開こうと
した、その時。
「今日はすごく幸せな日です。こんなお祝いをして貰えて、それから、あの人にも会えたんですから」
とても嬉しそうに、黒子がそう言ったのです。
幸せ、ええそうでしょう。黒子はとても幸せそうです。お祝いも気に入って貰えたようで少しホッとしました。
ですがその後続いた言葉に3人は首を傾げます。
―――あの人とは、一体誰のことなのでしょう。
「黒子、あの人って?」
降旗が聞けば、黒子はぱぁっと顔を明るくさせてさもよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりです。
こんな黒子の顔は初めて見たと高尾と若松が驚いたように顔を見合せました。
けれど降旗は違いました。少しだけ神妙な顔になって、黒子の話の続きを促します。
「降旗兄さんには話したことがありましたよね。何度か夢の中で見た、あの人のこと」
「うん、時々見るって言ってた奴だね。じゃあ、会えたっていうのは……」
「はい、その人です。夢の中で見るのと同じくらい……いいえ、それ以上に素敵な方でした。名前も聞けたんです!彼には大我と
呼んでくれと言われました」
ほんのりと頬を染めて話す黒子を見て、狼狽えたのは3人とも同じでした。
これはどう見ても、黒子がその人に甘い思いを寄せているようにか見えません。
特に降旗は黒子から夢の話を聞いていた分、動揺もひとしおでした。
大我……と降旗が繰り返して呟きますが、耳馴染みのない名前です。
若松も高尾も、そんな名前の人物に心当たりはありません。
しかしこれは大問題です。
黒子には火神王子という婚約者がいて、しかも明日には結婚式が行われるのです。
もしやと降旗が黒子の小指を見つめますが、その先に繋がるものは今までと変わりはありません。
降旗は困ったように若松へと視線を向けました。
「若松サン……」
小さな声で高尾が若松に呼びかけました。
若松は少しだけ考えるように目を伏せ、やがて抑えた声で黒子を呼びました。
「若松兄さん?」
「黒子、もうその人とは会っちゃいけない」
その言葉は、静かにその場に落とされました。
黒子の目が驚きに見開かれ、みるみるうちに悲しみに染まって行きます。
「どうして……!?僕がまだ子供だからですか!?」
「違う。そういうことじゃないんだ。黒子……お前には婚約者がいるんだよ」
婚約者……。黒子が茫然と若松の言葉を繰り返すように呟きます。
自分に婚約者がいるなどと、黒子は聞いたことがありませんでした。
隣に座っている降旗に目をやると、静かに頷かれます。次いで高尾に視線を向けても、それは同じでした。
「16歳の誕生日。つまり明日、お前は城に帰らなくちゃいけないんだ」
「城に……、帰る?」
「お前はな黒子、この国の王様の息子。つまり、王子様なんだよ」
ついに若松の口から告げられた事実に、黒子は信じられないというように首を振りました。
見かねた降旗がそっと黒子の手を取ります。
黒子はその手を、どこか怯えたようにぎゅっと握り返しました。
「嘘……」
「嘘じゃない。お前には、定められた運命の相手がいるんだ。王様のご命令で16歳になるまで全てを隠し俺達がお前を育てることに
なっていた。16歳の誕生日にお前は城に戻って、婚約者と結婚することになってるんだよ」
「そんな……っ!」
黒子はわっと顔を覆うとおいおいと泣きだしてしまいました。
まさかこんな事態になるとは思っていなかった3人も、痛みを浮かべた顔で顔を見合せます。
若松がそっと黒子の頭に手を乗せると、黒子はそれを振り払い走り出しました。
後ろから聞こえる兄達の制止の声も振り切って、階段を駆け上がり自室に飛び込みます。
そのままベッドに顔を突っ伏させると、声を殺すこともせずにわんわんと泣き叫びました。
初めて夢を見てから2年間、淡い思いを抱き続けた相手。
きっとあの人こそ自分の運命の人なのだと黒子はその思いを大事に育て続け、やっとのこと今日豊かに実ったと思ったのに。
先ほどまであんなに幸せだった気持ちがまるで嘘のように、黒子の心は深く深く沈んでしまいました。
(明日……約束したのに……)
王子だなどと言われても欠片も嬉しくありませんでした。そんなもの黒子は望んでいなかったのです。
優しく暖かな兄達と共にいられる毎日こそが、何にも代えがたい黒子の幸せでした。
ただ1つ、そんな幸せを手放してでも共にありたいと思ったのが……彼らと離れても傍にいたいと思ったのが、夢の中のあの人だった
のです。
「大我君……っ」
なのに今、王子や婚約者など求めても居ない物と引き換えに、自分の大切なもの全てが奪われてしまったのです。
黒子は言いようのない絶望にさいなまれ、暖かなお日様の香りのするシーツをギュッと握りしめました。
どうしたらよいのだろう。自分はこれから、どうすれば……。
その時、ふと突っ伏した腕の隙間から何か淡い光が差し込んできました。
なんだろうと顔をあげると、洋服ダンスの隙間から薄緑色の光が漏れ出て、暗い部屋の中をぼんやりと照らしだしていたのです。
黒子はまるで何かに引き寄せられるかのように立ちあがると、その洋服ダンスに歩み寄りました。
両開きのそれを開けると、黒子はその中の光景に思わず息をのみました。
中にかけられているはずの洋服は一枚もなく、ただ石造りの階段が上へと続いていたのです。
<おいで……>
誰かの声が、黒子にそう囁きかけます。
呼ばれている。黒子はその声に導かれるように、緑色に揺れる階段へと足を踏み出しました。
一歩一歩と黒子が階段を上る後ろで、洋服ダンスの扉が音もなくゆっくりと閉められました。
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