だから、ありがとう

    眠るユーリをじっと見つめて、ラピードは一つ息を吐いた。
    普段は眠ると年相応に少し幼くなるのに、今はどこか辛そうに寄せた眉が痛々しい。
    
    それでも、彼は泣かなかった。
    
    救えなかった。救えたはずだった。
    救えたはず……いや、本当に?
    今はもうわからない。過ぎ去った過去のやり直しなど、この世界は許してくれないのだから。
    
    最後の彼の姿を思い出す。
    自分達を逃がすために命を賭けたシュバーン―――いや、レイヴンを。
    
    あの時はああするしかなかった。
    きっとレイヴンも最初からそうするつもりだったのだろう。
    最後に見た彼の顔は、死に直面しているにも関わらずどこか晴れやかだった。
    
    何も考えていない自分はただの人形なのだと、レイヴンは言っていた。
    だが決してそんなことはなかったはずだ。
    ユーリの言葉は、仲間の言葉は全て彼に届いていた。
    だからこそ彼は自分達と剣を交える時に辛そうに顔を歪め、自分の命を賭けて仲間達を守れたことに安堵したのだ。
    
    ―――馬鹿だ。
    
    人間は馬鹿だ。
    それで当人は納得しても、残された者はどうなる。
    最後までレイヴンに縋ろうとしたカロル。
    リタもジュディスも走りながら何度も後ろを振り返っていた。
    
    『よそ見してんな!!俺達はエステルを助けに行くんだろうがっ!!』
    
    その中でそう叫んだのはユーリだった。
    泣きじゃくるカロルの背を押し、リタとジュディスを叱咤しながら、彼は一度も後ろを振り返らなかった。
    
    (……お前の時もそうだったのか、ナイレン)
    
    今はもういないかつての自分の主にそう問いかける。
    その場にいなかったラピードは、ナイレンの死をユーリがどう見送ったのか知らない。
    ただ帰ってきたユーリ達を出迎えた時、皆鎮痛な面持ちで俯いているものが多い中、彼だけは真っ直ぐと前を向いて歩いてきた。
    出迎えた自分を抱き上げ少し笑んですら見せた彼は、けれどその夜自分を抱きしめて―――泣いた。
    
    その涙を止める術すら知らなくて、自分の無力さを思い知らされた。
    彼を守ると誓ったはずなのに、何もできない自分が悔しかった。
    
    もう二度と繰り返さないと誓ったのに。
    
    (馬鹿だよ。……お前も、レイヴンも)
    
    そして何より、何もできなかった自分も。
    
    (―――すまない、ナイレン)
    
    
    彼を守ると、誓ったのに。
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    『ユーリは強いわな』
    
    いつしかナイレンがそう言った。
    それは多分、父を失ったすぐ後。
    
    ラピードの父であるランバートを討ったのは、他ならぬユーリだった。
    勿論恨んでなどいない。あれは仕方がなかったのだと、ちゃんとわかっている。
    ユーリがそのことで辛い思いをしながら、それでもちゃんと受け止めて父の分の命も背負おってくれていることも。
    自分にごめんと謝り続けた彼の悲痛な声を、ラピードは今でも忘れずにいる。
    
    それでも翌日真っ直ぐと自分を見た彼の目は、痛みを伴いながらも沈んではいなかった。
    幼いながら、彼は強いんだなと心のどこかで漠然と思ったのだ。
    
    だからナイレンの言葉にラピードはワフ!と肯定を示した。
    当時の自分は既に、彼ほど強く真っ直ぐな綺麗な人間はいないと思っていた。
    けれど、それだけだった。
    
    強い。彼をそうとしか思っていなかった自分を、ナイレンは見抜いたのだろう。
    小さく苦笑しながらラピードの頭をぐりぐりと撫でながら、「だがな」と呟いた。
    
    『強いだけの人間……なんて、いるわきゃねぇんだなぁこれが』
    
    銜えていた煙管を離し、ふぅと息を吐き出す。
    
    『なぁラピード。ユーリの奴、最近ずっとここで寝てんだろう?』
    
    父とその同僚達がいなくなってから、ユーリはずっと犬舎に来てラピードを抱きしめ眠っていた。
    それは仲間のいなくなった自分が寂しがらないようにという、ユーリの自分に対する償いに似たようなものなのだと、
    ラピードは感じていた。
    嬉しい反面、やはり体を痛めたり体調を崩したりしないか心配なのも事実だ。
    
    自分は一人でも大丈夫だからちゃんと部屋で休むように言っても、彼は聞き入れてはくれない。
    言葉は違うがちゃんと通じているのはわかるのだ。
    それでも彼は大丈夫と言いながら、自分を抱きしめて眠る。
    
    あんたからもなんとか言ってやってくれ、とナイレンを見つめると、彼は緩く首を振った。
    
    『俺の言うことなんぞ聞きゃしないさ。……いや、聞く余裕がない、って言った方が正しいか』
    『クゥン?』
    『あいつはな、不安なんだよ』
    
    目を離せば、最後に残ったお前までどっか行っちまうかも、ってな。
    
    そう言って目を伏せるナイレンに、ラピードは目を瞬いた。
    どういうことだと訝しんだ自分に気づいたのか、ナイレンは煙管の中の灰を床に落としながらため息を吐いた。
    
    『自分がランバートを行かせたからだと。あの時止めていれば、ランバートは死ななかったかも知れないのに、だとよ』
    
    泣いてはいなかった。
    けれど俯いてごめんなさいと呟いた声は弱々しく、握った拳は力を込めすぎて小さく震えていた。
    
    
    救えたはずなのに、救えなかった。
    守れたはずなのに、守れなかった。
    その上最後は、自らの手で彼らの命を絶つことになったのだ。
    
    どう思っただろう。
    
    ごめん、とラピードに謝り続けたユーリ。
    それはもしかしたら、ラピードにだけではなかったのかも知れない。
    
    『あれはあの場でユーリにしかできなかった。だが……背負わせたくないもの、背負わせちまったな』
    
    あいつはまだ幼い。
    全てを飲み込み消化し、綺麗に過去として自分の背に負えるまで時間がかかるだろう。
    
    そう言ったナイレンを、ラピードは瞬きを忘れてじっと見ていた。
    
    強いと思っていた。
    彼ほど強い人間は、類を見ないだろうというほどに。
    
    でも、だからこそ、負ってしまうものがあるのだ。
    強い故に背負ってしまうものが。
    
    
    ―――ユーリ。
    未だ自分を責めているのか。
    ごめんと謝る対象を失くして、お前の思いは今どこを彷徨っているんだ。
    
    
    なんとも言えない気持ちが胸の中に広がって、ラピードはナイレンの足に額を擦りつけた。
    幾らユーリにお前は悪くないと言ったところで、彼は認めないのだろう。
    逃げない彼の強さ故の、胸が締め付けられるほどの苦しさを感じて、ラピードはクフンと鼻を鳴らす。
    
    『……ユーリを恨むか、ラピード』
    
    ナイレンの言葉にフルフルと首を振った。
    
    恨むはずがない。恨めるはずがない。
    苦しんでいる彼を知っている。ごめんと言いながら自分を抱きしめた腕が小さく震えていたのを、知っている。
    
    そして、それでもなお俯くことなく前を見続ける、彼の強さを知っているから。
    
    
    そんな彼を守りたいと、ただ強く思った。
    
    
    ―――いつか、守りたいと思えるものを見つけなさい。見つけたら、命を賭けてでもそれを守りなさい。
       その者を守れることが、我らにとって最高の誇りであり、これ以上ない誉れなのだから。
    
    
    いつしか父に言われた言葉が胸を過った。
    守る。守ってみせる。彼がもう傷つかないように。苦しまないように。
    
    『ユーリを、頼めるか。ラピード』
    
    ナイレンの真摯な眼差しを受け止めて、ラピードは一度力強く吠えた。
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    ユーリの小さな呻き声が聞こえて、ラピードは知らず物思いにふけってしまっていたことに気づいた。
    ベッドに横たわるユーリを覗き込むと、彼が薄らと目を開く。
    
    「……ラピード?」
    「クゥン」
    
    自分はここにいると存在を主張するように鳴くと、ユーリはフと微笑んだ。
    その笑みがかつてナイレンの死後、自分を抱き上げた時に見せた笑みと重なって見えて、ラピードはクフンと鼻を鳴らす。
    
    守ると誓ったはずなのに、自分は何もできない。
    彼にかける言葉さえ思い当たらず、ラピードはただ鼻先を寝ころんでいるユーリの肩に押しつけることしかできなかった。
    
    「ありがとなラピード」
    「クゥー……」
    「俺は大丈夫だから。ありがと」
    
    ラピードの頭を撫でながら、ユーリは笑った。
    ユーリはいつもそうだ。
    慰めたいのは、言葉をかけたいのはこちらだというのに、どうしてこちらが慰められているのか。
    
    守りたいのに、守らせてくれない。
    いや、ユーリは十分守られていると思っているのだ。
    ユーリからして見ればラピードにも仲間にも十分に頼ってるつもりだし、甘えているつもりなのだ。
    ラピードや他の者から見れば、ユーリが与えてくれている物の半分も返せていないのに。
    
    「ワフっ!!」
    「ん?無理なんかしてねぇよ。心配症だなお前」
    「……ワンっ」
    
    ハハ、と笑う顔に無償に腹が立って、前足でべしべしとユーリの頬を叩いてやった。
    何やら抗議の声が聞こえてきたがもう無視だ。
    
    ナイレンが言った、聞く耳をもたいないとはこういうことかと今更ながら納得する。
    無理をするなと言っても、聞きやしないのだ。
    もしかすると、自分が無理していることにすら気づいていないのかも知れない。
    
    攻撃を続けていた前足を止めて、じっとユーリの顔を見る。
    
    (……酷い顔だ)
    
    暗闇に紛れているが、獣である自分は夜闇に強い。
    人間には備わっていない視力は、今でもユーリの顔をはっきりと捉えることができた。
    
    疲れているのだろう。心身ともに。
    それにはさすがに自分で気付いているだろうが、きっと皆には気付かせまいと朝になればなんでもないように装うのだろうことは
    容易に想像できた。
    
    
    「……クゥン」
    「ラピード?」
    
    すまないと謝れば、ユーリがどうした?と首を傾げた。
    ゆっくりと身を起こしたユーリを咎めることはせず、じっと彼の顔を見つめる。
    何もできない歯がゆさに、ラピードは銜えていた煙管をグッと強く噛んだ。
    
    
    ナイレンはバカだ。レイヴンもバカだ。
    残された者の気持ちも考えず、自分だけ納得して死を選ぶなど。
    なぁ、俺達はどうすればいい?
    残された俺達は、ただバカみたいにお前らを想って泣くことしかできないんだ。
    
    ……泣くことすらできない奴だって、いるんだ。
    
    そうだ。泣くこともできない奴がいる。
    わからなかったお前達じゃないだろう?
    でも、それでも「置いて行け」と、そう言ったのか。
    
    守るために?ユーリを、仲間達を守るため?
    俺は、ユーリの全て守りたいと思っていたんだ。
    命も、笑顔も、心も。
    
    けれど、どうだろう。もし自分がナイレンやレイヴンと同じ立場になったら。
    ユーリが、ナイレンやレイブンと同じ立場になったら……。
    
    
    少し考えれば、答えはあっけないほどすぐに出てきた。
    出てきたが、
    
    
    (……迷いもなく、選んでしまうなんてな)
    
    
    すまない、ユーリ。
    俺はきっとお前に「置いて行け」と言うだろう。
    お前は強いから、きっと前を向いて俺を置いても先に進んでくれると信じてる。
    
    すまない、ユーリ。
    お前はきっと俺に「置いて行け」と言うだろう。
    けれど―――俺はきっと最後まで、お前の傍を離れられない。
    
    
    
    すまない。……すまない、ユーリ。
    
    …ごめん。
    
    ……ごめんなさい。
    
    
    
    
    項垂れた自分の頭を、ユーリの手が優しく撫でた。
    小さく首を振って、そっとラピードを抱きしめる。
    
    「……ありがとう、ラピード」
    
    ポトリと額に落ちた雫に気づかない振りをして、ラピードはゆっくり目を閉じた。
        

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